とんち話で有名な“一休さん”は臨済宗の名僧だった!?
2020年08月29日
【一休さん】
テレビアニメの愛らしいキャラクターとして、
一度は目にした事があるのではないでしょうか?
現在でもこの一休さんをモチーフにしたキャラクターを用いたお仏壇店や石材店なども多く、
最も有名な“お坊さん”の一人であることは間違いありません。
この一休さんが実在の人物である事は広く知られており、
珍しい行動などばかりがクローズアップされがちですが、
実は臨済宗における名僧だったのです。
6歳で早くも出家。若き日から詩才に優れていた
“一休さん”の出自は不明な点もありますが、
後小松天皇の落胤(らくいん=父親に認知されていない私生児)とする説が有力視されています。
母親は正室ではありませんでしたが、御所で後小松天皇の寵愛を受けていたと言われています。
これを妬んだ人から
「あの女は懐に短刀を忍ばせて、天皇の命を狙っている」などと噂を流されてしまいます。
一休さんの母親である人物は身の危険を感じ、
京都の嵯峨野に引き上げたのちに生まれてきたのが一休さんだと言われています。
幼名は『千菊丸』と言い、6歳で早くも京都の安国寺に入門し、出家をする事になります。
この時に像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)という和尚さんのもとで暮らす事になり、
像外和尚からは『周建(しゅうけん)』という名をもらい、小僧の仲間入りを果たします。
この周建の名でしばらく過ごす事になりますので、
テレビアニメの一休さんは正確には“周建さん”だったのです。
この周建さんは幼い頃から賢いと評判で、
特に詩才に優れており13歳の時に作った漢詩『長門春草』や
15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中でも評判になるのでした。
この頃、周建さんは安国寺から京都における最初の禅寺で
臨済宗建仁寺派の大本山でもある建仁寺に移ります。
師匠の死により、一休さんも自殺未遂!?
17歳になった周建さんは、【禅】の道をさらに追い求め、
西金寺の謙翁宗為(けんおうそうい)和尚の元へ参禅します。
この謙翁和尚は純粋に【禅】を学ぶ為に、
門を閉じて誰も寄せ付けなかったと言われています。
この西金寺は幕府の保護もない貧しい寺で、家の前で鉢を持って経文を唱えて、
米や金銭の施しを受ける托鉢(たくはつ)で食いつないでおり、
建物もボロボロで今にも壊れそうな寺でした。
しかし、周建さんも純粋に【禅】を学ぶために謙翁和尚の元に参禅しましたので、
そんなことはお構いなしで修行に励みました。
周建さんにとって、師匠である謙翁和尚は
何も欲さずひたすらに禅道を行く、その姿こそが唯一師と仰げる存在であり、
謙翁和尚のもとで学べること以外に必要なものはなかったのです。
この謙翁和尚のもとで厳しい修行を積んで一年ほど経った頃、
謙翁和尚が病に倒れてしまいます。
周建さんは日々の托鉢に加え、薬の施しも受け、看病する生活が3年ほど続きました。
そんなある日、謙翁和尚より
「わしはもう長くないが、そなたには全てを教えた。今のうちに名を授けよう」と、
自身の謙翁宗為から一文字取って、『宗純(そうじゅん)』の名を周建さんに授かります。
ありがたく宗純さんとなったのち、謙翁和尚は21歳の若さで亡くなってしまいます。
師匠を手厚く葬ったあと、憔悴しきった宗純さんは一度帰省したのち、
生きる気力を失い、琵琶湖畔にて入水自殺未遂を起こしてしまうのです。
これは帰省した際に宗純さんの憔悴しきった様子を心配した母親が、
使いの者に宗純さんの後を追わせ、自殺を思いとどまるよう説得したと伝えられます。
新たな師匠のもと、
22歳でようやく【一休さん】に
謙翁和尚は亡くなる直前に、一人の和尚さんを宗純さんに伝えておりました。
その人は京都・大徳寺の高僧である、華叟宗曇(かそうそうどん)という方で
宗純さんはその方の元を訪れます。
しかし、華叟和尚に何度も弟子入りを懇願しましたが、簡単には入門を許されません。
大徳寺の門の前に座り続けて6日目、
華叟和尚が出かける際に「水をかけて追い払っておけ」と弟子に伝えました。
雪が降る中、水を掛けられた宗純さんは体の芯まで冷え切っておりましたが、
それでも門前に座り続けます。
そして、華叟和尚が帰ってきて
「なんじゃ、まだいたのか。わしの修行は厳しいぞ」と、
晴れて弟子入りが許されたのです。
華叟和尚のもとでは托鉢に加え、
ひな人形に色付けなどをする内職もこなしながら厳しい修行を続けていきました。
そんな修行を続けて3年後、師匠との禅におけるやり取りののち、
宗純さんの答えに満足した華叟和尚からついに『一休』の名を授かります。
この時22歳、【一休さん=一休宗純】誕生の瞬間でした。
一休さんはその後も華叟和尚の元で厳しい修行を続けていきますが、
26歳の時に琵琶湖に浮かべた小舟で夜通し座禅を組んでいると、
真っ暗な中にカラスが一声鳴いた声を聞いて悟りを開いたと伝えられます。
当時、臨済宗の大徳寺のような禅宗では
修行を終えたと師匠が認めた際に“印可状”を発行していたのですが、
一休さんはこれを辞退し、
詩・狂歌・書画など風狂(ふうきょう=仏教本来の常軌を逸した行動を、
本来は否定的にとり得るものを、
その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した用語)の生活を送っていました。
その後は皆さんご存知の通り、様々な逸話を残していく一休さんですが、
天皇などの皇族からも親しく接せられ、民衆にも慕われていたと言われています。
一休さんは衰退していた妙勝寺を中興し、
現在では“一休寺”とも呼ばれる酬恩庵(しゅうおんあん)にて
88歳という、その長い生涯に幕を下ろすこととなります。
奔放な性格と、その多才な才能で人々から愛された一休さん。
当時では珍しい長寿となる88年もの生涯に満足しての往生かと思いきや、
最後に残した言葉は…
「死にとうない」
だったそうです。
RIYAKのわらべ風神雷神
“一休さん”が13歳の頃から修行した建仁寺には、
俵屋宗達の『風神雷神図屛風』などの文化財が収蔵されています。
(現在は京都国立博物館に寄託)。
その風神雷神を愛らしい表情で再現したのが、
木製インテリア仏像ブランドRIYAKの『わらべ風神雷神』です。
RIYAKの中でも唯一無二の立体感で、インテリアとしても存在感があります。
わらべシリーズの愛らしい表情に癒されてみて下さい。
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一休さんが【禅】の道をきわめた臨済宗の名僧だったことは意外でした。
まだまだ一休さんには知られざる逸話がたくさんあります。
思わず唸ってしまうような逸話はまた次回以降のコラムでご紹介して参ります!
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